教育における先生の意義
今日はポルトガルとは全く関係のない話です。
最近、私は修士論文の執筆に自分時間の大半を投入中。サンプル対象とした各国企業のサステナビリティレポートの読み込みに時間がかかり、ここ1カ月程成果物自体に進展がないので、月一度の指導教官とのミーティングの提案が遅れているのが気掛かりな中、以前組織で働いていた時から報連相が苦手なことに自覚がある私は、コミュニケーションのタイミングを考えているうちに、ふといつものように壮大な妄想癖が…。そんなだからこの時期になってもまだ論文が終わっていないのですが、(他人から見たらどうしてそうなるのか関連性不明な妄想の先に)ふと高校時代の美術の先生のことを思い出しました。
その日、美術の先生がご病気と聞き、同級生と一緒に先生のご自宅までお見舞いに押し掛けました。担任の先生だったわけでもなく、部活が美術部だったわけでもなく、「第二希望でたまたま受けることになった選択科目の美術の先生」というだけの接点だった先生のご自宅に伺ったということは、「暇そうにしていたある日の放課後、美術部の同級生に連れられてたまたま行くことになった」ことは想像に難くありません。
そんな何の思い入れもなく何となくついて来てしまった私は、お見舞いの場で「何かしゃべらなきゃ」と焦る気持ちを隠し切れず、不気味な薄笑いを浮かべながら、ご病気の先生を静かに追い詰めていたに違いありません(笑)。そのうち、先生はその場にいた生徒数人それぞれにつき、コメントを始められました。そして、私の番になって、先生はこうおっしゃいました。「あなたは、何も言わないで放っておいた方がいいタイプ。だから、授業中もなるべく何も言わないで好きにさせるようにしていました。その方がいいモノが出来上がる。」
エスカレーター式ではない地方の公立高校では、ともすれば大学受験に関連する主要教科ばかりが重視される校風だったことを考えると尚更、選択科目の先生が、一学年450人もいる大規模校で、特に何かに秀でていた訳でもない生徒個々人の性格を見ながら、教育方針を考えてくださっていたというその貴重さに、自分の子供や人に教える立場になって改めて胸を打たれる気持ちになりました。家庭であれ、教育の場であれ、職場であれ、効果を考えた相手目線の人がそばにいてくれることは、大きな救いですよね。
この歳になっても、いまだに自分のことに必死で、時間に追われ、一方的に何をどう教えるかばかりで、なかなか「効果」と「相手によって」の配慮ができない自分を顧みて、こういう穏やかな教育者目線を持った人が私の人生にいてくださったことへの感謝と自省の念にしみじみと感じ入った朝でした。